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国立モスクワ・スリコフ芸術大学 名誉教授
村岡 信明

漁夫の砦、望楼より見た夜明けのドナウ川とペストの町

 偶然が運命を変えるときがある。とくに戦場で死と生のギリギリの境界で生き残った者は実存の背景として強く語る。死んだ者と生き残ったものの差は、偶然の位置の運命である、と。

 ユーゴスラビアに対するアメリカ主導のNATO軍による空爆が七十八日間にわたって行われたが、或る時、橋梁を目標として発射されたミサイルが橋梁の上を通過する民間人を乗せた列車に命中し、多数の死傷者が出た。数日後、コソボ難民を乗せたトラックが同様に橋梁上でミサイルによって爆破され多くの婦女子が死んだが、両爆撃にも生き残った者がいた。その差は偶然の位置の運命であった。

 小さなパレットの上にも偶然はある。色をつくるとき各種の色を合わせるが(概して偶然であるが)目的の色が出たときは混色といい、違った色のときは濁色という。混色された絵の具はキャンバスに定着された作品としての生命を持つが、濁色の絵の具はウエスで拭き捨てられる。

 タブローの制作過程はジャンルに関係なく大別すると二つの手法がある。一はキャンバスの上に己れの意志として確実に色彩を置いていく個性表現の手法。二は偶然の現象を必然に構成していく手法である。暗室の中で無作為にチューブを取り出し無作為に塗りつけることから、コンピューター回路のランダムないたずらまで、物理的な錯乱や集積、素材のマチュールの変化現象まで、偶然に期待する手法は無限大にある。いずれにしても結果が作者の期待したものであれば作品に使用されるが、単なる絵の具の汚れとして捨て去られていくものもある。

 ささいな事であれば日常の生活の中でも繰り返される。私事であるが、この章を書くまでテーマは《チェコスロバキア》に決めていたが、原稿用紙に向かった時、意味もなく急に《ハンガリー》に気が変わった。

 ハンガリーの大作曲家リストが思い浮かんだ。書斎には阪神大震災以来使ったことのないオーディオが埃をかぶったまま置いてある。何気なしにFMのスイッチを入れると、最初にアンプから流れてきたのは、午後八時の時報だった。そしてアナウンスは、「今夜の特別番組はリストのハンガリア狂詩曲2番ホロビッツをおくります。」これは何重にもかさなった偶然であった。

 偶然とは予期しない出来事。予測できない結果であり、言いかえれば未知の世界である。深い霧に包まれた朝のように。

  ブダの丘より見たドナウ川。
左側がブダ、右側がペスト、黒く見えるのがマルギット島
遠景の山の彼方はユーゴスラビア
 初秋のブダペストの朝は、コートを着ないと寒いくらいに冷え込んでくる。

 ペスト地区の繁華街をぬけて鎖橋の前を通っていくと、船着場の道端に小さな売店があった。熱湯でボイルしたソーセージをパンにのせ、カラシをたっぷりとかけて売っていた。

 早朝より船を待つ人達はこれを買って、下の浮桟橋に降りていき、風に背を向けながら立食いをしていた。私も買って朝食にしたが、それはとても美味しかった。

 夏のあいだ観光客で賑った遊覧船もひっそりとして、ドナウ川の川波に揺られて停泊していた。ここから北のエステルゴムまでを、ドナウ・ベントとよんで観光コースになっているが、ワルシャワまで出かけて電気製品等を買いに行く庶民の生活路にもなっている。私はその途中にある、センテンドレという町を船で訪ねていった。

悠然と流れるドナウ川。
右岸に見えるのはネオゴシック建築の国会議事堂
 
 両岸に展開する中世の建築物を眺めながら、ゆったりと流れるドナウ川をさか上っていくと、やがて船は深い森の中に入っていった。都市の郊外を過ぎると、すぐそこに豊かな大自然が待っている。日本ではとても考えられないことだ。岸辺には波で洗われた太い木の根が絡み合って露出していた。

 この辺りまで来ると川風はいちだんと冷たく、スカーフを頭からかぶる人もいたが、寒さに耐えきれず、甲板にいたほとんどの乗客はタラップを降りて船室に入っていった。

 約2時間ほどでセンテンドレの町に着いた。十七世紀後半に、異教徒であるが故にブダペストの町に住まわせてもらえなかったセルビアの流民が拓いたこの町は、古い小さな町であったが、どこか異国的な雰囲気を持っていた。今はハンガリーの若い芸術家達が集まって、さかんに作品の発表を続けている芸術家の町になっている。

 ギリシャ通りと呼ばれる一番賑やかな通り(とはいっても路地の少し広いだけ)の周辺には、大小さまざまな美術館や画廊がある。そのいくつかに入ってみたが、ポスターあり、版画あり、油絵ありと、雑然としていて、作品のレベルはそれほど高くなかったが、抽象画の多かったのは意外だった。なぜかといえば、社会主義時代にはロバの尻尾と酷評されていて、絵としての市民権は無く、どの社会主義国でも否定されていたので、その反動だろう。

 私がこの町に来た目的の一つは、コヴァチ・マルギット陶芸博物館であった。この建物は古い教会を改造して作ったせいか、エントランスホールに入った時から、何かもの哀しいムードが漂っていた。

 一階のホールから奥の回廊につづく各部屋に展示されている作品は数百点にもおよび、そのほとんどが人体彫塑であった。どれもが痩身のせいか病的にも感じられた。陶土を指の大きさ位に千切って、押し付けていく技法は粗雑ではあったが、作家の個性が強く主張され、充分な説得力をもっていた。

 抱き合って泣いている顔、離れて叫びあう一対の男女の悲しみの顔、呆然と天を仰いでいる失意の顔、顔。人間をテーマに身体ごとで表現している顔の表情は、どれもが心の深層でじっと耐えているようでもあり、観る者の心にまで何かを訴えかけてくる。

 私がかつてどこの国でも見たことのない、異様な作品群であった。ヒューマンな女流作家ぐらいの知識しかなかったが、この作家は恐ろしいほどの魂の感性を持っている。

 回廊から最後の展示室、地下への石段を下りていくと、カビ臭い冷んやりとした空気がスッと、頬をかすめていった・・・・・・※カタコンベ・・・・・・。

 落ちかかった漆喰の壁、薄暗い灯をともす鉄製のブラケットの光に照らされた広い地下室は全体がセピア色の霧の中に浮かびあがっていた。つき当たりの壁際に一点、両側の壁の中央に一点ずつ、わずか三点の展示だった。誰も居ない広い空間にあと私がひとり・・・・・・。

 遠いハンガリーの、名もない古い町の、この三点の作品の前にまで私を連れてきて、こうして立たせているのは、何かの力が作用しているのだろうか。時が消えてしまったように、じっと作品と対峙していると、身体中から血が引いていくような戦慄が伝わってきた。

―――――――聞こえる、魂が泣いている―――――――

 レーピンが絵画に求めたものは、生きる人間の魂の表現であった。コヴァチ・マルギットの追求したものは人間の魂の慟哭であった。セルビアの流民がこの町に住みついてから二百三十余年の歴史のなかで培ってきたものは西洋でもなく、東洋でもなく、人間の原生的な魂の土壌であった。

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